デジタル配信時代の著作権 

斎藤肇

デジタル配信時代の著作権

 10年ほど前から、私は書籍の流通ということに不満を持ち続けていました。
 売れない作家である私の本は、売れない作家の本だから売れない。従って、出版の機会に恵まれないのは当然である。なんとなく、そんな印象を持っていました。
 けれど、常に疑問を持ち続けてもいました。
 なるほど、ビジネスとしての「出版」の枠組みの中では、個々の作品の最初の価値は「売って儲けが出るかどうか」である。その点において問題はない。
 しかし生み出された作品を評価する方法は、「売れる」ことだけではないはずだし、そもそも、「売れる」かどうかを決定する要因の中で、「内容」の比率は驚くほど低いのではないか。なぜなら、本を買う人は、いつだって、その本を読む前にお金を払っているのだから。
 それは奇妙なことであるはずだけれど、出版というものをビジネスとして成立させるための仕組み、さまざまな流通機構を考えれば、それは仕方のないことである。
 でも、もっと別の流通機構というのがありえるのではないか。たとえば・・・。

 いつしか時代は変わり、書籍自体の流通も大きく変わろうとしていますし、また、書籍という形を取らない、つまりは出版という枠組みをも越えてしまいそうなデジタル配信も行われるようになりました。
 そのいくらかは、私が10年以上前から夢想し、出現を願ったもの、であるはずでした。
 しかし、こうした時代の流れは、私の予想以上にさまざまなひずみを伴っているようでした。進歩した技術が、その利用のスキルを充分に蓄積できぬまま、とりあえず旧来のビジネススタイルや慣例によって枠組みを与えられ、用いられます。社会なんてものはトライ・アンド・エラーと競争原理の泥臭いやり方で動いてゆくものではあるのだけれど、ひょっとしたら、そういう方法論でやってたら大変なことになるような状況になりつつあるのではないか・・・。

 もしかしたら、流通は、クッションであったのかもしれません。
 さまざまな手間やコストがかかる面倒なものであるのは確かなのだけれど、それは同時に、多様なチェック機構を持つ、作品が世に出るまでの緩衝機構としても機能していたのかもしれない。−−そういうことです。
 だとしたら、流通を新しくする時には、できるだけ従来の機構の中にあった「良い」部分を残す、いや、かなうならば従来の機構の長所をさらに伸ばす新たな概念や機構を作り出してゆきたい。
 そう考えるべきではないでしょうか。

 今、従ってこの今に、多くの問題点の基本スタンスを明確にしておくべきだと思うのです。

 著作権の問題は、ひとまず、多くの問題点の中のひとつに過ぎません。
 ただし、デジタル技術の進歩が、著作権という考え方に、なんらかの改革を促している、おそらくは早急に考えるべき問題点のひとつであるのは間違いないと思います。
 今、いいかげんな体制作りが進んでしまったら、もう戻ることはできない、のかもしれないのです。

 さて、著作権と一口に言っても、その意味するところは微妙に揺れています。
 ですが、まずは、そのもっとも根本となる部分から固めてゆきたいと思います。
 たとえば、権利というものが発生する前段階、

 誰が、
 なにを、
 いつ、

 作り出したのか分かるようにしたい。
 当然であるはずなのに、具体的な方向性が語れてこなかった基本的な考え方だと思います。
 その実現が、この場における当面の目標のひとつになります。

 著作権によって主張すべきこと


 そもそも著作権とはなんなのか・・・。
 まずは、それについて考えてゆくべきかもしれません。
 ただ、まあ、それを個人で規定してしまうことには意味があるとも思えません。
 さまざまな角度、さまざまな立場で、微妙に意味のズレた「著作権」の捉え方があるはずだ、とも思います。
 たとえば、そこに金銭的な価値観を投入するならば、「著作権は飯のタネ」という考え方も出てくるでしょう。心情的には、こうした表現には抵抗もありますが、一方、プロ作家というものにとって、それは動かし難い一面の真実でもあります。
 こうした、さまざまな「著作権」の意味や効果を考えるのは、必要でしょう。

 ただし、具体例の話が進みすぎて、肝心の考え方を見失ってしまいたくない、とも思います。
 つまり、「著作権」とは、なにを目的として創出された概念なのか。「著作権」という考え方によって、なにを守ろうとしているのか、です。

 簡単に言うなら。それは「著作権者の保護」なのかもしれません。
 けれど、もしかしたらこうした形の主張は、単に著作権者と呼ばれる人の、権利、金銭的メリットの保護、と受け取られかねないように思います。
 そうではない、とは言いません。
 ですが、その裏にはさらに、「なぜ著作権者を保護すべきか」という考えもあるべきでしょう。
 私は、断定します。
 それは、「優れた著作物を作り出そうとする行為を肯定するため」だ、と。

 著作権という概念が喪失してしまったら、そこにはもう、「新しい創造物を生み出そうとする努力」に、価値が見出せなくなってしまうだろう、と。そんな概念などなかった時代にもすぐれた物語が作られてきたことは事実です。しかし今という時代、かつてのようにおおらかに創作行為を行うことは、どのみち無理でしょう。
 放っておいたら、創作行為そのものが空疎なものになってしまいかねない。
 それこそが、著作権という考え方によって防ごうとしている、真に恐れるべき事態だと、私は考えています。

 著作権保護のスタンス


 ・・・とはいうものの、「著作権の保護」について個人のレベルで活動するのは非常に困難でしょう。
 少なくとも、著作権者を保護し、彼らにより良い作品を作り出してもらうための環境を作り出す、ことまではできそうにありません。
 私にできそうなことは、その基本的なスタンスについて考えることです。
 考えて、話し合って、それを知ってもらおうとすることです。
 そうして、より優れた著作権保護の概念が普及するならば、多くの人の心に生まれた著作権の考え方が、最終的には、下手な環境保護めいたやり口で作者を守ってみせるのより、ずっと、「優れた著作物を生み出そうとする行為」にとってプラスになるだろうと思うのです。

 自己の利益、あるいはデメリット、ということについて人は敏感です。
 私もそうです。
 ですが、一時的な視野狭窄状態の中で見た「利益」が、将来的にも自己の利益を保証してくれるわけではありません。なろうことなら、継続的に利益をもたらしてくれるシステムや、そのシステムを支える考え方を見つけたい。
 そうして、おそらくその「考え方」は、より多くの人に共有されて初めて大きな意味を持つでしょう。

 著作権保護について考える、私の基本的なスタンスはここにあります。

 具体的な活動について



 では、具体的にはなにをすべきか。
 ひとつは、「著作権」の実体を探すことです。
 これにはふたつの方向があろうと考えています。

 ひとつは、作品そのものの保護を目的とした方向。
 誰かの書いた(作り上げた)作品を、ちょっとした変更をするか、あるいは変更すらせぬまま、ただ、著作者の権利を無視するかのごとき利用をした、という行為が考えられるわけですが、これへの対抗です。
 基本的には、「誰がその作品を作り上げたか」を確認できるようにしておけば、少なくとも、「作品」の優先権の主張はできるでしょう。
 これは、「著作権」の範囲として、「作品」そのものをベースにし、その「改変」行為によって得られる結果には「改変」という形でしかオリジナリティを認めない考え方です。(「改変」にもオリジナリティは認めるべきと考えます。その行為が道義的、あるいは法的に正当であるかどうか、という判断とはまったく別です)
 残念ながら、この考え方は、たとえば主人公の名前だけ変える、というような機械的な変更にしか対応できない可能性があります。
 それでも、個々の作品というのは、そもそもそれ自体が、多くの影響を受けることで構築されるものですから、できあがった作品そのものを、とりあえず誰の作品であるのか保証するだけで、大きな意味があろう、と考えます。

 もうひとつは、アイデアやモチーフといった部分まで踏み込んだ「優先権」の確認。その場合の、類似度を判断するための目安を見つける方向。
 これは、かなり突っ込んだ議論が必要そうなテーマです。
 アイデアの優先権を主張する、というのはきわめて微妙で、結論のつけにくいところですから、せめてなんらかのガイドラインが作れたらいいな、と考えています。
 どこにオリジナリティはあるのか、というふうに問題が言い換えられるかもしれません。(前述の、「改変」にもオリジナリティは認めるべき、という考え方ともつながってきます)

 こうした考え方の確認を、まずやってゆきたいと考えます。

 次に、もうひとつ突っ込んだ、具体的活動方針や仕組みについても考察してゆくことになるでしょう。
 ある程度方針が定まったとして、それを具体化する方策を考えないのでは活動が不十分である、と言えるからです。というのも、活動の具体化を検討することが、一方で理想論になりがちな「著作権」の考え方に枠を与え、限界が見えてくるだろうからです。
 これについては、鐸木能光さんに運営レベルまで考えたシステムの腹案があり、このサイトのスタートと同時に公開されているはずです。
 ただしそのシステムは、その仕組みで充分であるかどうか、という検討がしっかりなされているとは言えず、むしろ、投入できる労働や時間、金銭から逆算する形で考案されたもの、というべきでしょう。
 このへんの兼ね合いを勘案しつつ、より有効な方向性を探って知恵をしぼることはきわめて有益な活動となるでしょう。そうして、そのためにも、「著作権」のどこをどう扱うかを考えることが重要になるはずなのです。

 まとめとして


 さて、スタートにあたっての所信表明としては、おおむね以上です。
 まず考えること。
 そして伝えること。
 そこまでが、とりあえずスタート時の目標です。うまくゆけば、実際に著作物の優先証明を行える機能を盛り込むことができるかもしれませんが、それは少し先の課題にしたいと思います。
 今後、さまざまな「著作権保護」の活動が始まることでしょう。
 ひょっとしたら、この場もそういう流れに飲み込まれてしまう可能性だって、ゼロとは言えないはずです。
 ですが、まずは純粋に、余計な利権その他の入らぬ形で、より好ましい形を探してみようと思っています。
 たくさんの方々の、「自己の利益」を意識した形での意見交換ができることを願っています。「自己の利益」を隠そうとした議論は、余計な寄り道を作るだけだと思いますので。
 もともと、権利なんてものは、利益保護のためのもの。でも、できれば堂々とそいつを主張したい。そういうことでもあります。

 無理せず、正直におつきあいください。
 多くのかたの参加と賛同(あるいは意図の分かる拒絶)を期待しています。


                        2000年5月  斎藤 肇

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